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※この記事には、朝井リョウ『イン・ザ・メガチャーチ』のネタバレが含まれます。 ※本記事の内容は、あくまで一読者としての個人的な解釈や受け止め方を整理・考察したものです。

朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』を読みました。 小説は読むのに時間がかかるため、苦手意識がありましたが、すんなり読めました。

読後に胸に残った重たい余韻と、作中で描かれる「人が何かに依存していく構造」があまりにもリアルで、思わずノートを開いて各登場人物の心の動きや「自分なりの気づき」を整理してしまいました。

以下からネタバレを含みます。

本作は、3人の視点から物語が展開していきます。彼らの足跡を辿る中で、私なりに深く考えさせられたのは、現代社会を生きる私たちが直面する「孤独」と「孤立」、そして「他者との境界線」というテーマでした。

3人の登場人物が辿った「埋まらない穴」

物語は、立場も年齢も異なる3人の視点を行き来しながら進みます。自分なりに彼らの変化を追いかけてみました。

1. 久保田慶彦(離婚済み・父親)

離婚し、仕事にもやりがいを感じられず、娘との電話だけが生きがいの久保田。彼は元々、人をどこか客観的に見ている冷めた人物でした。しかし、新たな仕事でアイドルグループの「直哉」と出会い、雑談や相談ができる関係になることで充実感を得ていきます。

ですが、彼は「仕事関係」という一線を越えて踏み込んでしまい、結果として全てが崩壊。元の「孤独」な状態へ戻ってしまいました。

2. 武藤澄香(久保田の娘・大学生)

大学での友達付き合いが上手くいかず、周囲と話が合わずに無理を重ねていた澄香。彼女にとって同級生の「ユリちゃん」だけが心の拠り所でした。そんな中、自分と同じ繊細さを持つ「直哉」というアイドルを知り、推し活に没入していきます。

「直哉のために生きる」ことに幸せを見出した彼女は、親から金を騙し取ってまで全財産を注ぎ込むようになります。コミュニティでの知人は増えたものの、本当の友達はおらず、以前にも増して不健全な「孤立」へと突き進んでいきました。

3. 隅川絢子(推し活・宗教への依存)

ある俳優のファンで、同じファンの友人・いづみさんと共に推すことを生きがいにしていた絢子。しかし、推していた俳優の自死をきっかけに居場所を失い、孤独に陥ります。

いづみさんに誘われて参加したグリーフケアから、いつしか「ブルームマイセルフ」という団体の教えを深く信仰するようになります。最終的に全てを捧げた彼女でしたが、騙されているいづみさんの姿を見てふと「我」に返ります。正気に戻った時、彼女の手元にはお金も、友達も、何も残っていませんでした。

考察①:「孤独」と「孤立」は似て非なるもの

この3人の姿を自分なりに整理していてハッとさせられたのが、「孤独」と「孤立」の違いについての解釈です。

孤独: 年を重ねる中で周囲との関わりが薄れ、周りに誰もいなくなる状態(久保田、隅川)

孤立: 学校や職場など集団の中に人はいるのに、話が合わず心の繋がりを持てない状態(澄香)

一見どちらもいたな状況ですが、客観的に自分と他者の距離感を見れていたというプラスがありました。

ただし、人は孤独や孤立の寂しさに耐えかねた時、救いを求めて「何か」に強烈にハマり、信じ込もうとします。それが推し活であったり、宗教的な観念であったり、あるいは特定の人への過度な執着であったりするのだと感じます。

考察②:幸せの裏にある「境界線」を越えるリスク

何かにハマり、全てを捧げている瞬間、人は間違いなく「幸せ」を手に入れています。澄香も、絢子も、直哉や信仰に夢中になっている時は心が満たされていたはずです。

しかし、その熱狂は同時に「他者の視線や周りの現実がどうでもよくなる」という危険と隣り合わせです。

私なりに読み解いた作中の過ちの共通点は、3人がそれぞれの形で「他者との境界線」を越えてしまったことでした。

久保田 | 直哉(仕事相手としての境界線)

澄香 | ユリちゃん(現実の友人関係としての境界線)

隅川 | 世の中の人(現実社会との境界線)

境界線を越えて過剰に関わったり、自分の願望を相手に押し付けたりすることで、巡り巡って大切な人間関係を壊し、より深底の孤独・孤立へと落ちていってしまう。その描写が本当に鋭く、胸を刺しました。

実感:何気ない「雑談」と「対話」の大切さ

この本を読み進めながら、私は自分自身の日常や今後の生き方についても強く引き寄せて考えさせられました。

作中の久保田の姿を見て、特に自分自身の課題として痛感したのが「日常の中で気軽に雑談ができる相手を見つけることの必要性」です。 ※ただし、作中では、仕事関係の相手を年齢差の離れた友達と信じてしまい、崩壊を生み出しています。

普段の職場では「仕事に必要な会話」が中心になりがちで、要件があれば話すことは苦ではないものの、雑談という「何もないゼロの場所」から会話を生み出していくコミュニケーションスキルの難しさと大切さを、私自身あらためて実感しています。

仕事だけの繋がりに閉じてしまうと、何かあったときに心の拠り所を失いかねません。だからこそ今のうちに、

何もない状態から他者と心地よい会話を生み出していく雑談力を身につけること

将来にわたって気軽に話せる身近な人間関係を大切にしておくこと

といった取り組みをし、自分自身が将来「孤独」の泥沼にハマらないための土台を作っておくことが必要なのだと個人的に解釈しました。

おわりに:ブレーキを捨てきれない、人間の「嫌な部分」

正気に戻った絢子が、未だ信仰の中にいるいづみさんをただ待つラストの虚無感。それは「一度客観性を失い、境界線を踏み越えてしまった代償」の大きさを物語っています。

本当なら、何かを全身全霊で信じたり推したりして、自分を忘れるほど没頭できたらどんなに幸せでしょうか。けれど、破滅を避けるためには、どこかで冷めた自分(客観性)を残し、ブレーキをかけ、欲望や境界線をコントロールし続けなければなりません。

「熱狂して救われたい」と望みながらも、社会的に死なないために理性という名の冷めたブレーキを捨てきれずに生きる――。

そんな人間の浅ましさや悲しい性が突きつけられるからこそ、この作品はこれほどまでに重たく、そして一読者である自分の生き方を見つめ直させる苦い余韻を残すのだと感じました。